こんちは、筆者です。
皆さんは人生の中で「後悔」していることはありますか?
人生は「選択の連続」だとどこかの記事で読んだ気がしますが、それは結構本当のことだと思うんです。たかだか20数年間しか生きていませんが、その筆者が生きた年数で思います。
この”選択”というのは特に「中学生」頃から強烈に意識し始めます。
おそらく、中学生は小学生と違い「将来どんな職業に就くのか?」という”進路”を考えさせるような環境があるから、”選択”という行為が必然的に必要になってくるのだと思います。
筆者はこの”選択”を意識し始めた中学生時代に今でも忘れられない「後悔」があります。
この筆者の「後悔」の経験が誰かの役に立てば幸いです。
この記事でわかること
・筆者の内に秘めた”後悔”
・”後悔”後の変化

文筆家
たくしん
takushin
プロフィール
- 野球歴13年 小学〜大学まで
- 主にキッチン、接客、フィットネスインストラクターのアルバイトを経験
- 吃音症歴20年
- オートローン会社(金融業界)に1年半在籍
- スーツ生地メーカーのオーダースーツ販売店に約4年在籍
- 百貨店販売員経験あり
- 読書を月10冊ほど
- 筋トレ歴約7年
- 文章を書く時に一番饒舌になるタイプの人間
中学生の頃の”ある”選択
筆者が後悔した選択は”組体操”での選択です。
筆者は中学生の頃、小学生からやっていた野球部に所属しており、まあそこそこ運動をしていたタイプの人間でした。
ただ、当時は「プロ野球選手」になりたい。そんな夢を持っていたので、とにかく野球の技術向上のためであれば何でもしよう。
そんな意識が常にあり、部活動以外にも毎年秋くらいに一時的に作られる「駅伝部」に練習生として立候補して「足腰強化」のために入部するなど、筆者自身は「野球がうまくなれば良い」わけですが、はたから見たら”やる気のあるやつ”のようなイメージをもたれていたのでしょう。
このような前提がまずありました。
中学3年生の頃、体育祭で「組体操をやろう」ということが決まったんです。
組体操をやることが決まったとき、まぁ嫌でしたね。
小学生の頃も組体操をやった経験があったのですが、当時の組体操の「キツさ」「怖さ」が脳裏に染み付いていたので、どうしても前向きにはなれませんでした。
そんな「組体操」で筆者がその後の人生でずっと”後悔”する選択をしてしまうのです。
「組体操」で大技に挑戦
体育祭で「組体操」という演目が決まりました。
これは3年生全クラスの男子で合同で行うもので、もちろん、そこにはサッカー部、陸上部、バスケ部と色々な運動部の人がいるわけです。運動部以外の人もですね。
そんな結構大規模な演目の中で、細かい組体操の技とは別に主に運動部所属(運動部以外もいました)の男子が集まり、全クラスの男子の半分ほどの人数で大きな「タワー」を作る”大技”がフィナーレの技であることが、当時演目の監督を担当する体育の先生の口から発表されたわけです。
正直、その時、筆者は他人事のようにその話を聞いていました。
なぜならば、当時の筆者は体重50kg前半で、野球部だったとは言えヒョロヒョロのガリガリだったので、「自分は無関係だろう」そんなふうに思っていたんです。
そんな筆者の予想を裏切るように、「タワー」の大きさは”6段”だったのですが、そのタワーの3段目に抜擢されてしまいました。
これは筆者の「野球の技術を向上させる」という姿勢が当時の体育の先生から「やる気のあるやつ」と思われていたらしく、結構大切なタワーの3段目という役割をくれたんです。望まぬ役割を。
筆者は小学生の頃の組体操に対する嫌な思い出がありますから、もう選ばれた時は「最悪だ」くらいの気持ちでした。
そんな筆者の気持ちで周囲を困らせるわけにはいかなかったので、とりあえず歯を食いしばって、タワー作りの練習に臨みました。
タワーへの恐怖心
練習でタワー作りをすることになり、1段、2段と人が積み上がっていきました。
タワーの作り方は人が立ったまま肩を組んで頭を胸側に丸め込み、人が立てやすいようにして、その上に人がどんどん乗っていくわけです。
これ今普通に考えたら結構地獄絵図な気がするんですけど筆者だけでしょうか。下の人は上に何人もの人が乗るわけですからその分体重がかかり、相当負担なわけです。何かの刑と言っていいほどの拷問です。
実際、下の人が苦悶の表情を浮かべていたのを今でも覚えています。
一番下の人の負担に比べると、3段目はまだマシです。と思うでしょ?
そんなことはありません。3段目には別の負担があります。それは「恐怖心」です。
一番下の人は上の人の体重がかかるという「身体的負担」と、自分たちが崩れてしまったら上の人が大怪我してしまうという「恐怖心」です。
ただ、3段目は一番下の人ほど「身体的負担」はありませんが、それでも上にあと3段人の組みがくるわけですからまあまあ負担はあります。それと自分たちが崩れてしまうと上の人が大怪我をするという「恐怖心」もあります。
もう一つ別の恐怖心があります。それは、自分たちが落ちてしまうのではないかという「恐怖心」です。
これが半端じゃなかったです。
人の肩の上に乗るわけですけど、もちろん不安定さというのがあり、3段目はまだタワーの途中ですから、結構上からの体重の負担も大きいわけです。その負担からより不安定になっているのです。
ガリガリの筆者はもう必死にこの「身体的負担」と「恐怖心」と戦うという経験をここでします。
「後悔」の決断
「身体的負担」と「恐怖心」との戦いが続く、タワー制作の練習の最中、筆者は体と共に心が壊れていってしまうことを感じました。
3段目の台を作ろうと人を足掛けにして、人の上に登るのも大変です。グラグラとふらつき今でも壊れそうなのに登って3段目の足場を作らないといけない。
まさに、あるアニメの地下労働施設のような極限の世界です。圧倒的恐怖!!
それでも何とか自分の心をおさえつけつつタワー作りに必死になっていました。
何度やっても5段目、6段目が立たない。まぁそれはそうです。めちゃ怖いですもん。
高さで言ったらマンション2階以上はあったんじゃないでしょうか?
そんな高いところの足場が超不安定なわけですよ。それは足もすくみますって。
で、その体育の先生なんて言ったと思いますか?
「タワーが立ったら一斉に全員で潰れる」
って言ったんですよ。
いや、やばすぎですよね。タワー倒壊ってか?怪我しますって。
それでも当時はやったんですけどね。
それでも何度も練習をして筆者たちは何とかタワーを完成させようと挑戦しました。ただ、筆者のメンタルはもちませんでした。
筆者は先生に「自分を誰かと交換して欲しい」と直談判してタワー作りから抜けるという行動に出ました。
それを先生は了承してくれ、筆者はタワー作りのメンバーから抜けたわけです。
もう「恐怖心」を抑え続ける事ができなかった。それを今でも覚えています。
体育祭本番
その後、筆者がタワー作りのメンバーを降りて、変わりの人が3段目に入って練習を続けていました。
体育祭まで残り1週間ほどと迫り、初めて、完璧ではありませんが、6段目に人が立てるほどまでタワーが立ったのです。
「おぉー」
歓声ですよ。それはそうです。何度も何度もやってもできなかった事がみんなの力を合わせる事でできたんですから、感動もんです。
ただ、完璧ではありませんでした。これで果たして本番できるのか?という疑問が残りつつ体育祭当日を迎えるのでした。
ーーー
体育祭当日、いよいよ3年生男子の演目「組体操」の刻がやってきました。
大技「タワー」はクライマックスの技です。それまでは、小さな技を間違いなく全員で演じます。
筆者もここは間違いないようしっかりと演じることに徹していました。
小さな技が一通り終わり、そしていよいよ、「タワー」に挑戦です。
1段、2段、3段と筆者が降りた段も着々と出来上がってきます。
そして、4段、5段と人が上り、筆者が担当していた3段目の人たちの顔に苦悶の表情が浮かびます。その辛さはすごくわかります。「がんばれ」心の中でそう呟くしかできませんでした。
そして最後の1人がタワーの最上階へ登っていきます。
今にもタワーは倒れそうです。ぐらついています。
気がつくとあたりがシーンとしているのがわかりました。周囲の人も固唾を飲んでタワーが出来上がるのを見守っています。
5段目の肩の上に最後の1人が足をかけ、しゃがみ込みます。ここまでは練習でもできました。
そして、最後の1人が折り曲げた膝をゆっくりと伸ばしていき、伸ばしきったあと両腕を高くあげました。
完成です。
その瞬間あたりから歓声が上がりました。
練習でなし得なかったことを彼らは本番でやり遂げたのです。
タワーを作った人もタワーをサポートしていた周りの人も全員で大喜びをして泣きました。先生も泣いていました。筆者も泣きました。
ですが、筆者の心の中で感動と一緒に流れ込む何か別の感情がありました。それが「悔しさ」です。
自分の弱さで易きに流れ、責任から逃れた、本来完成したタワーの3段目に立つのは”自分”だったこと。この事実に筆者は「悔しさ」を感じたのです。
この「悔しさ」はこれまで野球大会で負けてしまった、テストで悪い点をとってしまった。そんなものとは比にならないほど大きな感情でした。
タワーを完成させ感動している人たち、タワー作りのサポートで感動している人たち、タワーが完成して感動している先生、頑張っている姿を見て感動している全校生徒。
この感動は元々自分が生み出す事ができたもの。そう思ったのです。
この経験から学んだこと
この経験から筆者は「人には巡り合わせがあること」「ただその巡り合わせから逃げることもできる事」「自分で決めたことから逃げる愚かさ」この3つを学んだのです。
人には巡り合わせがあります。これはすごく面白いものです。体育祭で任された責任から逃れたことによる”後悔”という気持ちがあったから今はこうした経験を文章にして読者の皆さんに届けられています。これも巡り合わせです。
人生にはこうした「伏線」と「伏線回収」があり、その影響というのは他者に「関与している」というものがあることを知りました。
筆者はこの後悔を元に、これまで「任されたこと」は、やり遂げよう。そんな意識で仕事をしています。これもいつか、色々な形で「伏線回収」されるんだと思います。
そして、人はこの”巡り合わせ”から逃れることもできます。
例えばよく言う”人の縁”というのにも言えます。「職場で出会った人」「学校で同じクラスになった人」「大学が同じになった人」色々なところで”人の縁”というのは見る事ができます。
ただし、この”人の縁”を自ら切ることもできますよね。
「この人はなんか合わないから絡まないようにしよう」「嫌な人だから接しないようにしよう」このように取捨選択することができます。
これもまさに「巡り合わせから逃げる」ということです。
また、筆者の行為もまさに「巡り合わせから逃げる」ことです。普段の行いから「タワーの3段目」を任せられたのにも関わらず、そこから逃げる。
このように「巡り合わせ」と「巡り合わせからの逃避」ができることを気がつきました。
そして何よりも大切なのは「決めたことから逃げることの愚かさ」です。
筆者の経験から言うと、筆者は元々3段目を任せられた時点で”選択”ができたのです。「やる」か「やめるか」その選択をすることができ、筆者は「やる」ことを選んでタワー作りに挑戦した。しかし、結果、その辛さから逃げてしまった。自分の決めたことから”逃げて”しまった。
これは後に今でも心に深く刻み込まれている”後悔”になっています。
これは決して「自分で決めたんだから最後までやれ」という強制したことばではありません。もちろん、逃げた方が良い場合もあります。心身が壊れてしまいそうな時は逃げる事が必要です。
ですが、筆者のこの経験は違います。
いくら”辛い”とは言えども、「自分が怪我をしてしまうかもしれない」という自分本位の気持ちで、「怪我をできるだけしないような体制」が整った環境での逃げです。
心が壊れてしまうことはありません。しかも、最初からそれをある程度分かった上でタワーに挑戦することを了承しています。
それなのに筆者は自分が決めたことに対して”逃げる”ことを選択しました。その結果、タワーは無事に完成し、タワー達成のメンバーになれるはずだったのをみすみす手放しているわけです。
このことから「自分がやると決めたことから逃げる」という選択は往々にして後悔するということを身に染みて感じました。
タワーが完成して「悔しさ」が沸き起こるということは、自分の中でやりきれていない証拠でした。
この経験から「自分が心の底から決めたことはやり切ること」これが人生のポリシーとなったのです。
”後悔”は時に人を強くする
自分で言うのも何ですが、”後悔”というのは決して悪い事ではありません。
「後悔しないような選択をしないと」と生きる上で思ってしまうかもしれませんが、後悔をしない選択をし続けると「後悔をした時の免疫力」がつきません。
もし後悔をしてしまった時に、それに耐える事ができず、ずっとその気持ちに付き纏われているような感覚に苛まれます。そうすることで、次の行動に臆病になってしまい、また後悔のある道を選んでしまう。
”後悔”と聞くと、なんだか悪いことに聞こえるかもしれませんが、”後悔”は人を強くしてくれるのです。
筆者もこの”後悔”した経験が今の人生でとても活きています。おかげで心の底で”やる”と決めたことに注力する事ができています。このような文章を書くことも筆者がやると決めてやっている事です。
前項で「巡り合わせ」の話をしましたが、実は”後悔”も巡り合わせの一部だったりします。
その後悔があなたのその後の人生に活きてくる。そんなことがあるのです。
ですから、筆者から伝えたいことは「後悔をどんどんしてください」ということです。
後悔をする分だけ人は学び、強くなります。最初に後悔を経験しておけば、長い人生を歩む時に後で「後悔のない選択」をすることができます。
特に10代、20代の人は”後悔”に恐怖心を持つのではなく積極的に後悔が残るような選択をしても良いくらいです。
これから”選択”がどんどん増えてくるわけですから。
経験した”後悔”から学ぶこと、感じること、それが何よりも大切なのです。
コメントする